「キリストが宿られたのだから」   06.12.24
                        ヨハネ1:1〜14

  病気をしていろいろ自分の体が不安でたまらなくなると
どうしても恐ろしくて寝付かれない。しかし しまいにキリストが
枕元に立ってじっと私を見ていてくださると思うたのでやっと
落ち着いて眠りについた。 (八木重吉 クリスチャン詩人)
  不安でたまらない、しかし、落ち着いて眠りにつけたという、
この詩の言葉を、私たちも口にすることができます。クリスマスを
知っているからです。
 神のみ子が、人と一緒に生きようとしてくださった。それが
クリスマスに明らかになったことのひとつです。
 イエスさまは、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)を
実現する男の子として誕生しました(マタイ1:23)。
 そして、ヨハネ福音書は、「言(イエスさま)は、わたしたちの
間に宿られた」とクリスマスを表現します。
 神の御子は、人の傍らに立つために、人の世に降ってきて
くださったのです。
  「宿る」というのは、テントを張るという意味です。
 聖書は、人を地上で旅を続ける旅人のように見ています。
 永遠の神の国を目指して荒れ野の旅をしている。
 様々な出来事と出会い、時に弱り、悩み、危険とも出会う。
 しかし、その旅を続けている私たちは、要塞に住んでいるの
ではありません。くたびれたテントの中で、おろおろしながら
生きているようなものです。そんなテント生活は、神の御子を
お迎えするにはふさわしいものとは思えません。
 けれども、そこで一緒に生きるために、私たちの傍らにテントを
張ってくださったのです。それがクリスマスに明らかにされました。
 テントを張るのは、羊飼いです。
 イエスさまは、私たちを青草の原、憩いの水際に導く羊飼いと
しておいでくださいました(詩23編)。
 養い、労わり、導いてくださる羊飼いがおいでくださったことを
知る私たちは、安心して眠れます。また起きて、進み出せます。